<   2009年 02月 ( 13 )   > この月の画像一覧

業(ごう)なる農

今日も季節を間違えたような雨の一日でした。
今冬は暖冬、少雪と毎日のように言われていましたが、今夜のNHKニュースでも昭和21年以来3番目に暖かい冬だったと報じられていました。
昨日、久々に行った“雪のふるさと”安塚でも雪が少なく、雪だるまも所在なさげでした。
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実感的には例年よりも一月くらい早い感じなので、そろそろ09年灘立農園の作業計画を立てようと、参考に昨年の農事記録を開いてみました。

この時期はまだ本格的な作業前なのでとびとびの記録でしたが、3月2日には「風もなく快晴の青空。冬越しの白菜20ヶ、少し凍みた大根、キャベツ収穫。静さん(妻です)はいつものようにフキノトウ!しかし、まだ残雪もあり、春はまだ先?!」とありましたが、それでも3月8日にはサヤエンドウの播種をしていました。

ということで、来週3月になったら灘立農園もオープンです。

そういえば、昨日、読んだ雑誌の中に冬越しの野菜がなぜ甘いかについて書いてありました。
それによると…冬に収穫される野菜は寒さが厳しくなると凍結するのを防ごうと自身のでんぷん質を糖分に変化させる。雪の中から掘った大根や白菜が甘くて美味しいのはこのためだ…そうです。

科学的(野菜生理学的?)にはたしかにそうなんでしょうし、食べる分だけそのときに畑に取りに行くのがいちばんいいのですが、この「雪の中での冬越し」というのがなかなか難しくて、特に大根は逆に凍(し)みてしまってシャキシャキ感がなくなってしまうのです。

ということで、今年はインターネットや雑誌などから情報収集して、野菜(大根、白菜、ネギ、タマネギ、サトイモ、サツマイモ…)ごとの冬越し保管方法を実践しています。

例えば、ネギと白菜は新聞紙で包み、そして大根はビニール袋に入れて冷暗所で保管とか、サトイモやサツマイモは段ボール箱に入れて部屋の中で保管とか…。
うまくいったものもあれば、もう少し工夫が必要なものもありましたが、やっぱり自分でつくったものはなるべく最後までみずみずしく、そして無駄なく食べきりたいと思います。
それが野菜に対する礼儀と思います。

「わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。
 山に獣を追い、海河に魚をとることを業(ごう)が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。すなわちこの世に生きる者はことごとく深い業をせおっている。」   五木寛之著「私訳 歎異抄」から
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by mm-nadachi | 2009-02-25 22:00 | 灘立農園 | Comments(0)

息子たち

私には二人の息子がいますが、今日は長男の誕生日です。

彼が生れた日も今日のような薄曇の空だったような気がします。
初めて彼と病院で“会った”とき、義母が彼のちっちゃな手を広げ、「ほら、大丈夫。みんなついているよ」って言ったことを今でも覚えています。

そんな彼も33歳。
思えばよくぞここまで生きてくれたと思います。

というのも、ちょうど“おびやあけ”(これは全国共通語だと思いますが、“出産した後の床上げの日”という意味で、だいたい「出産後21日前後」)の頃に肺炎を起こしていて(そのことに気づくのが遅かったのですが)、家で急変して病院に着いたころには呼吸停止状態で、蘇生手当てで息を吹き返したということがあったのです。

そのとき父から職場へ電話があって、「おい、もうだめだってよ」って、最初はなんのことかさっぱりわからず、話を聞くうちに「そんなばかなことがあるか!」と思いつつ、病院にかけつけたとき彼はすでに保育器の中で、「今夜を越えればなんとかなるでしょう」という医師の言葉を信じるしかなく、その夜はただ病院の暗く寒い廊下を祈りながら歩き回っていました。

小学生のころ、野球を教えていたときに右打ちから左打ちにさせようとしていて、ようやくなじんできたなあと思っていたのですが、久しぶりに一緒にやってみたらなんと右打ちに戻っていて、「だって、左打ちってぼくだけなんだもん」っていうように、そのころは目立つのが恥ずかしい、どっちかというと内気な性格だったのですが、中学生のころから家の外ではかなり伸び伸びやっていたようです。

そして、高校に入学して入ったのがサッカー部!
そのころはなんたって「キャプテン翼」の時代で、彼も中学の野球が終わった段階で「これからはサッカー!」とすっぱり方向転換したようです。
なんどか試合の応援にも(黙って)行ったりもしましたが、とうとう彼のゴールを見ることはできなかったことが今でも心残りです。

高校時代のサッカーへの打ち込み方をみていたので、大学でも続けたらという私たちの声にはほとんど耳もかさず、彼が選んだ道は(これも)なんと“スタイリスト”!
彼の中でどうしてこの道を選択したのかはよくわかりませんが、4年間の専門学校を経て、7年ほど都内のデザイン会社で勤務した後、4年前に結婚をして、今は新潟市で個人でデザインの仕事をしています。
先日、私には父親(彼にとっては祖父)の職人肌DNAが遺伝していないと書きましたが、幸い長男に隔世遺伝したようです。

ついでにいえば、彼だけがわが家の男どものなかで唯一の“酒飲み”です。
これは私の母(彼にしてみれば祖母)の実家と妻の実家からのDNAでしょうか…。

彼の33年間をここですべて語ることもできませんし、思いつくままに書いてみました。
最近は少し太り気味なのでジョギングなどもしているようですが、仕事も忙しいようなので、これからも体に気をつけてがんばっていってもらいたいと父としては願っています。

最後に、昨年のバレンタインデイに長男夫婦からプレゼントされた彼がデザインしたオリジナルTシャツと今でも私がいちばん好きな写真(たしか5歳ころ)を載せて、“親バカ日記”を終わります。
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追伸

右上の写真は二男です。
9月3日にはもういちど親バカ日記になりますので、またおつきあいください。
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by mm-nadachi | 2009-02-24 22:10 | ふと思うこと | Comments(0)

巡礼記Ⅴ~行基、弘法大師、泰澄、聖徳太子~

先週は青梅マラソン参加で行けなかったので今週こそはと思っていたのですが、悪天候の予報(事実、土曜日は風も強く寒かったです)だったり、デジカメが修理中だったり、そして、体調的にも万全でなかったので、土曜日の夜までは行かないつもりだったのですが、日曜日の朝の青空が「さぁ、行こう!」と誘っているような気がして、デジカメも借りることができましたし、体調もなんとか回復してきたようだったので、急きょ午後から(午前は灘立農園で白菜や大根などを収穫したり、フキノトウを採ったりしてました)出かけることにしました。

もともと今週は長岡駅を拠点にして長岡市と小千谷市、見附市内の3札所を回る計画だったのですが、午後からの半日でしたので、見附市は次回にして、いつものとおりのんびりと信越本線で長岡駅に向かいました。

□第15番札所《千蔵院》(長岡市)信越本線長岡駅から徒歩10分
長岡市へは県立近代美術館や駒形十吉美術館、そしてリリックホールなどにはときおり行くことがあっても、駅前通りを歩くことはずいぶん久しぶりのような気がする。
だから厚生会館くらいしか印象に残っていなかったが、なんだか長い行列が続いていて、バス停にしてみたらどこ往きだろうと思っていたら、ケーキ屋さんの前からのようで、先日、テレビで見たシュークリームの特別格安販売(1ヶ39円!)だった(ちなみにかつて長岡市に本店がある銀行で勤務していた妻の話によると“美松”というお店らしい)。

残念ながらその列を横目に眺めながら、最初の千蔵院に向かう。
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千蔵院のご本尊は千手観世音菩薩で行基(668~749年)の作と伝えられている。
今、読んでいる梅原猛著「日本仏教をゆく」(朝日文庫)でも、行基については「木像仏を多く作ったことは疑い得ない」としており、仏像彫刻を泰澄から習ったのではないかと記されている。

泰澄は私のまちにある第一番札所“岩屋堂”の聖観世音菩薩を彫刻した仏教者であり、改めて33観音札所のご本尊の製作者をみてみると、最も多いのがこの行基で12体、次が弘法大師の5体、そして泰澄と(なんと)聖徳太子の4体が続く。

巡拝の楽しみは前にも書いたように初めて訪れるまちを歩くこともあるが、こうした歴史のある芸術性の高い仏像や観音堂、寺院を見ることも大きな喜びである。

当然、その中のいくつかは県や市町村の文化財に指定されているようであるが、こうした優れた建築物や仏像がもっと広く知られ、そして次の世代(時代)にも継承されていくことを願わずにはいられない。

□第14番札所《真福寺》c0187298_037272.jpg小千谷市)長岡駅からバス30分~徒歩15分
長岡の三尺花火をまだ直に見たことはないが、ここ小千谷市片貝も花火が有名で、商店街の看板も「花火と職人のまち」となっている。


千蔵院前から小千谷行き急行バスに乗る。

以前も書いたように今回の巡拝には自家用車は使わないで、電車とバス、そしてあとはひたすら歩くことにしているせいもあるが、今回ほどバスの有難みを感じていることはない。ただ、どのバスに乗っても乗客が少ないのは私の地域と同じである。
ますます進行する高齢化や地球温暖化など環境問題も含め、バスや電車など公共交通の果たすべき役割が大きいことは誰もが否定しないであろうが、今の車中心の流れを変えること、とりわけこの雪国においては不可能に近いことなんだろう。

だから、自分ひとりがボラに行くときには電車を、そして巡拝には電車とバスを使ってもそれは単なる自己満足にしか過ぎないのだろうが、さりとて今の自分にできることからすればこれからもこうやっていくしかないんだろうと思う。

閑話休題

仁王尊が大きな目を見開いて出迎えてくれる。

c0187298_0401215.jpgこの仁王尊、そして仁王門や観音堂も片貝や長岡の“職人”が安永(約230年前ころ)、そして弘化年間(約160年前ころ)に造ったものとのこと。
とくに仁王門の素朴にして精緻な彫刻が素晴らしい。











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これも今回の“遵守”事項だった“決して走らない”をとうとう破り、1時間に1本のバスにようやく乗り込む。

走ったのはちょうど1週間前の青梅マラソン以来で体が重い。
明日からまたラン練習再開しなきゃと思いつつ、汗だくの体を拭きながら帰りの来迎寺駅に向かう。

次回からは時間にゆとりをもってもっと“楽しむ”巡拝にしよう。
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by mm-nadachi | 2009-02-24 00:27 | 越後33観音札所巡礼 | Comments(0)

謙信が兼続に勝った!?直江津駅お土産ベスト5!

金曜日のブログで書いたように、今週はいくつかのアクシデントで33観音札所巡拝は中止のつもりだったのですが、あまりの青空に午後から急きょ出かけてきました。

その報告はまたあとにして、帰りの直江津駅で乗り継ぎ電車を待っているときに待合室売店の“お土産ベスト5!”を見つけました。

そのうち3つは私も今までになんどか買ったことがあるものでしたが、あとの2つはあまり見かけないものでした。

さっ、ベスト5はなんでしょう?
“発表”までもう少し駄文を続けますので、みなさんも考えてみてください。

それと、もちろんその横には“天地人”のせい、いや、おかげなんでしょうが、ここでも“義”と“愛”の文字がわがもの顔した新商品(かな?)が陳列されています。

それにしてもどうしてもこの流れには乗れない自分って“非県民”なんでしょうか?

話がおかしくなってきましたので、では、お待たせしました!
第5位から発表します。

第5位 謙信の城
第4位 継続だんご
第3位 翁飴
第2位 謙信の里
そして、栄えある第1位は…! そうです、あの“出陣餅”でした!
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第2位と第5位は恥ずかしながら知りませんでしたが、やっぱりここでは謙信強し!なんですね。
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by mm-nadachi | 2009-02-22 22:21 | ふと思うこと | Comments(0)

同い年の太宰治と松本清張?!

夕方、市立図書館にだいぶ遅れてしまった本の返却に行ってきました。

そして、いつものようにまずは新刊図書の棚から見ていったのですが、「こんな本、誰が読むの?」って図書が相変らず“陳列”されていて、この棚を眺めるたびにきっといつかどのような選書基準なのか聞いてみたいと思ってしまいます。

そして、その横が特集コーナー的な棚なんですが、いわずもがなの“天地人”に並んで、いきなり「生誕100年 太宰治・松本清張」という文字が目に入ってきました。

「えっ!?」というのが正直な感想で、この二人に作家がまさか同い年とは・・・。

ということで、家に戻ってインターネットで「太宰治と松本清張」とそのまま検索したらなんと184,000件のヒット!

「生誕100年 太宰治VS.松本清張 架空対談 」
「 太宰治と松本清張 生誕100年 相次ぐ復刊...出版不況の救世主に 」と続き、
「太宰治と松本清張はどちらも1909年生まれなのに、へえ、太宰と清張が同い年ですか。おっしゃるように清張のほうが年下というイメージでした。」と私の印象を代弁しているようなブログも発見。

そういえば最近、松本清張の短編集が書店に並んでいるのをよく見かけていましたが、そういうことだったんですね。

これじゃ大宰ふうにいえば“患者図書室ボランティア失格”でしょうか?

そして、私が今日借りたのは五木寛之著「私訳 歎異抄」と今野敏著「白夜街道」の2冊で太宰治と松本清張ではなかったという、なんともしまらない結論でした。

最後に私が好きな太宰治の一文を紹介して…

「雨の降る日は天気が悪い」

明日も風が強いようです。

越後33観音札所巡拝は順延予定です。
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by mm-nadachi | 2009-02-21 00:09 | 読書 | Comments(2)

青梅マラソン“前日談”

c0187298_1342326.jpg青梅マラソンの前日、熱海に行ってきました。

熱海って聞くとどうしても温泉街っていうイメージで、初めて降りた駅前はそんな感じもあったんですが、熱海梅園に向かうバスが少しずつ海に近づくにつれ、あれっ?って感じで、熱海観光協会HPの「青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル郡(“群”の間違いです!)、ヤシの並木通り・・・外国の高級リゾートに似た雰囲気のビーチ」そのもの!c0187298_1311969.jpg

でも、なんだかあまりに“場違いな”感じの砂浜だったので、帰ってきてHPをよくよく見たら、昭和63年6月に全面オープンした人工ビーチということで、道理で(?)ビーチバレーしているオニーちゃんたちのすぐ横、“ヤシの並木通り”の下にあの“貫一・お宮の松”があるんですよ。
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それはさておき、「7分咲き」と駅前案内に出ていた梅園でしたが、やっぱり桜と違って、梅は木そのものにしても、そして花にしてもどうしても圧倒的な感じはなく、やや期待はずれの気持ちもなくはなかったのですが、梅園を歩いているうちに「澤田政廣記念美術館」と書かれた大きな看板を見つけました。
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どこかでその名前を見たことがあったような気がしていたのですが、ちょうどその日は26℃まで気温が上がり、おまけに歩き回って暑かったせいもあり、“涼を求めて”その答えも出ていないまま入館しました。

そして、最初の木像を見てすぐに思い出しました。

それは糸魚川市の谷村美術館に展示されていた木彫りの仏像と同じ優しさを漂わせていました。

谷村美術館へは3度ほど入ったことがありましたが、展示されている木像の素晴らしさとともに、美術館そのものがシルクロードの砂漠の遺跡をイメージした設計で、内部も石窟調になっていて、一つの洞穴に一つの仏像が安置され、振り返るとそこから次の洞穴と仏像が見える道順(ロード)になっていて、あたかも「長い旅路を経て仏像に出会うシルクロードの巡礼の道のりを追体験する」気持ちになり、「まさに彫刻と建築との微妙な調和」が心地よい感覚を与えてくれたことを覚えています。

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澤田政廣記念美術館は多くの木像に加え、絵画や書も展示してあり、力強さだけでなく木目のような繊細さややわらかさ、逞しさなど、あらゆる感情が形として表現されていて、絵画にはない生々しさを感じることができました。

そんなこともあって、帰ったら久しぶりに谷村美術館に行ってみようと思っていたのですが、さっきHPを見てビックリ。

そこには、「谷村美術館・玉翠園・翡翠園は1月末をもって閉園いたしました。」のお知らせが載っていました。

また、この地域からひとつの優れた文化が消えていってしまいました。
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by mm-nadachi | 2009-02-20 01:19 | 旅行 | Comments(0)

トンマな夫婦の珍道中

今日も雪です。
昨日より寒く、朝、患者図書室ボラに向かうときの車の外気温計では-2℃でしたが、久しぶりに白くなった景色を見て、なんだか少しホッとしました。

さて、昨日お知らせした “大事件”ですが…。

マラソン大会には普通、車で行くことが多いので会場には簡単な着替えや飲食物とか、あまり多くの荷物を持っていかないようにしているのですが、今回は電車だったせいもあり、大きなショルダーバッグとデイバッグをかついで乗り込んだのでした。

おまけにスタートとゴール地点が歩いて10分くらい離れていて…でも、今回は久々に“高校時代に写真部だった”妻が同行してくれていたので、荷物は彼女にお願いして私はひたすら走ってゴールして…その後は着替え~小休憩して、「いい天気だったね~」なんて(今から思えば)呑気なこと言いながら東京駅に向かったのでした。

*以下、電車の中でのお気楽な夫婦の会話(抜粋)
「そういえば、さっき今日のマラソンの参加者が出ている新聞を見ていた人がいたけど、オイラももらったよね」
「うん、カバンの中に入っているよ」
「すぐ出る?」
「ちょっと…」
「そう、じゃ、後でいいや」

この「後で」といういつものズボラさが悲劇を生んだのでした。

東京駅着が13:00ころだったのですが、コインロッカーがどこも使用中で、結局いったん改札からでて、地下鉄丸の内線に向かう通路にあるコインロッカーにようやく荷物を押し込んで、鍵を閉めようというときにさっきの新聞を思い出して・・・。

*再び、最近物忘れの進度を競い合っている夫婦の会話(《註》穏やかな言い方にしてあります)
「新聞はどのカバンなの」
「えーとね、受付でもらった青い袋に入っているんだけど…。あれっ?そっちのカバンにない?」
「ないよ」
「新聞くらいいいじゃない」
「新聞もそうだけど、ゼッケンやサングラスだって入っているんだよ」
「ゼッケンは5623番なんだから、記録はあとでインターネットで調べれば…」
「そうじゃないの!あのゼッケンがないと今日の意味がないの!」
「じゃ、どうするの?」
「探しに行ってくる!」

ということで、その後、中学時代からの友人に会う予定の妻を八重洲中央口まで送ってから、なんとまた青梅に向かったのでした。

ここまでお読いただいて、どっちもどっちなのか、それとも私のほうがガキっぽいでしょうか?

マラソン大会では参加賞としてTシャツやスポーツタオルなどをいただくことが多く、大変重宝させていただいているのですが、ゼッケンはそうした実用品ではなく、たしかに妻が言うように単なる番号なのかもしれませんが、“ランナー”にはそれと違った思いがあって、それも初めての青梅マラソンだったからなおさらどうしても残しておきたかったのです。

この思いが伝わったのか…ゼッケンなどが入った“青い袋”はありました。

そのゼッケンがこれです。(*スタート前です)c0187298_22442129.jpg

このために東京駅から青梅まで3時間半の往復をしたのです。

そのせいで山種美術館に行くことはできませんでしたが、今の私にはこっちのほうが大切なものとしていつまでもとっておこうと思っています。

以上、トンマな兎年生れの“恥ずかしながら”の珍道中報告でした。

*実はもうひとつもっとトンマな“事件”があって、マラソン前日には私が荻窪で“大人の休日”キップを落としてしまって、それを発見したのが妻だったので、今回は痛み分け(?)でした。
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by mm-nadachi | 2009-02-17 22:31 | ラン | Comments(0)

ノロ亀の青梅マラソン報告

今日は雪が降りました。

北国の冬ですから雪が降ることになんの不思議もないのですが、汗を流してきた青梅マラソンや熱海梅園の七分咲きの梅、そしてなんと花が散り始めた(と、地元の人が言っていました)“あたみ桜”なんかを眺めてきた3日間に比べ、一気のマイナス温度です。

いやはや、どっちもおかしな天候ですね。

それはともかく、無事に青梅マラソンに参加してきました。

青梅マラソンは1964年(中学2年生だったのだ!)の東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した「円谷選手と走ろう」を合言葉に、当時としては337人という画期的な参加者で1967年(高校2年生だったのか…)に始まり、今年で43回目を迎えたということを会場でいただいたスポーツ新聞で知りました。

今回は私が参加した10㎞に約5,000人(“灘立”よりも多い!)、そして30㎞の約15,000人の合計約20,000人が初春の青梅路を走ったのです。
それを“物語る”一枚がこれで、
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当日、会場に向かうJR青梅線の向かい側のシートに座った彼らの足もとはみんなランニング・シューズで、もちろんそういう私もそうだったのですが…。

青梅の街(でも、スタートとゴールのあるところは、“河辺”(かべ)という青梅駅の2駅手前で降りるんですが)はそんなランナーばっかりで、どんな細い路地を通ってもだれかがウォームアップしていて、そのほかに応援する市民や家族でいっぱいでした。

でも、実は私は青梅へは東京事務所勤務時代に一度だけ来たことがあって、そのときはずいぶん遠かったことと、街の活性化策だったのでしょうが、街道沿いの商店に懐かしい映画の看板を多く飾ってあった程度の記憶しかなかったんですが…。

スタートは10:00。これまで、長嶋さんや高橋尚子さんなどがスターターとして来ていたようなので少し期待していたのですが、10㎞は(残念ながら)地元の体協の副会長だったようで(放送がよく聞こえなかったのです)、それにひきかえ(?)メインの30kmはあの朝原宣治選手!(ということを後で知りました)c0187298_030496.jpg
(*右手を上げているのが私です。撮影者は高校時代に写真部と言っていますが…)

コースはほとんど高低差もなく、暖かくて寒さ対策のウインドブレーカーを着る必要もなかったですし、なんといってもずっと応援してくれている人がいてとても走りやすく、タイムも目標の1時間を切り、57分06秒で50歳代男子973人中465位でした。

それにしても、10kmの全選手の第1位が高校生で31分06秒!
私がようやく3km通過時点で、もう彼らは折り返してきていて、そろそろラストスパートのタイミングだったと思うんですが、そのスピードといったら速いのなんのって…。

兎年生まれなのに昨日に限ってはすっかりノロ亀の青梅マラソン報告でした。

ところが、この後に大事件が勃発して…
それはまた明日にでも…。

外はまだ強い風が吹いています。
明日も雪なんでしょうか?
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by mm-nadachi | 2009-02-17 00:26 | ラン | Comments(0)

巡礼記Ⅳ~初めての青空~

 今回は先日もお知らせしたように、南魚沼市と魚沼市に行ってきました。
 それにしても、この新しい市の名称ですが、それでなくても旧町名との関係がよくわからないうえに、“南”がつくとつかないでどう違うのか…本当にこんがらがっちゃいますね。

 それはともかく、今回で4週連続になりますが、初めて雪や雨もなく、それどころかこれまでの冬空におつりが出るほどの快晴でした。

 それでは巡礼記Ⅳをお届けします。

□第12番札所《天昌寺》(南魚沼市(旧塩沢町))上越線塩沢駅から徒歩30分
 直江津駅から約3時間、長岡までは雨のあとがあったが、塩沢駅では一面の青空。
 今日は長靴ではなく踝が隠れるくらいのブーツ。
 歩いて10分くらいで汗をかき始め、防寒着を脱ぎ、“おいずる”姿で歩く。
 行き交う人や車で通り過ぎる人の視線を感じる。
 こうした服装で、しかも歩いて巡拝する人が少なくなったということか…。

 通常、ご本尊等は参拝する場所から遠くにあるが、ここはご本尊(観世音)とその両脇の多聞天、地国天像を間近に拝むことができ、鎌倉時代の作という力強さに圧倒される。

c0187298_0473534.jpg□第11番札所《大福寺》(南魚沼市(旧塩沢町))上越線塩沢駅からバス15分徒歩5分
 前回の轍を踏まぬよう、20分も前からバス停でお昼のアンパンをかじりながら待つ。
 道路の反対側の食堂からはうまそうなラーメンの匂いが…。
 しかし、我慢、がまん。

 バスから「越後一の寺・雲洞庵」の案内表示を発見。
 それよりも“景勝、兼続が学んだ寺”のほうがいまどきのキャッチコピーなのだろうが、今回は時間的な余裕がなく、(いつになるかわからない)次回にすことにする。

 本堂横の観音堂で参拝。
 誰もいないと思うと読経も下手ながらについ声が大きくなる。

 ここの境内に樹齢800年以上といわれるイチョウの大木があり、今あるのは、以前落雷で焼け残った半分程度というが、見事に青空に向かって聳え立っていた。c0187298_0493587.jpg


□第13番札所《弘誓寺》(魚沼市(旧堀之内町))上越線越後堀之内駅から徒歩30分
 塩沢駅までバスで戻り、近くを少し歩いていると、いきなり古い街道のような町並みが広がる。
 なにかと思って見渡すと、「ようこそ三国街道塩沢宿へ」と書いた看板があった。c0187298_051761.jpg

 お店の人に聞くともう少し延長されるそうで、「雪国の歴史と文化が薫るまちづくり」整備計画の一環らしい。
 
 多くのまちが躍起になってこうした中心市街地活性化策を検討しているが、私が小さかったころ、たまに父に連れられて“街”に出かけたことがあった。その前の日から期待いっぱいで、でも、なにかを買ってもらえるとか、なにかができるということではなく、ただ“街”に行けることが嬉しかったことを覚えている。

 時代が変わり、そして年齢を経た今と当時を同じく考えることはできないにしても、今の“街”にはこうした思いに応えうるなにがあるのだろうか?そして、私たちは“街”になにを求めているのだろうか?

 そんな昔のことを思い出してみたり、今は“街”へ向かうよりはこうして季節を肌で感じながら、ひとりで里道や山道を歩くことで感じる穏やかさを大切にしようと思ってみたり…。
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 そうこうするうちに、弘誓寺(“ぐぜいじ”と読む)に到着。
 「例年の三分の一くらいしか雪が降らなくてね」と納経所で聞く。
 その中に、春を待ちわびる気持ちとともに、雪の少なさをどこかで寂しく思う越後人を見た気がする。
 
**********************

さて、今週は巡拝はおやすみにして、15日(日)に青梅マラソン10kmを走ってきます

ということで次回ブログは来週の予定です

みなさんもお元気でお過ごしくだい
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by mm-nadachi | 2009-02-13 00:38 | 越後33観音札所巡礼 | Comments(0)

春を待ちわびる思い

 この土曜日も越後33観音札所の巡拝に南魚沼市と魚沼市を歩いてきました。
 それにしても、南魚沼市とか魚沼市とか言っても、なんだか実感がないですね。
 そういう私の町もそうですが、合併前の自治体名で言うと旧塩沢町と旧堀之内町の3札所でした。
 
 でも、その巡礼記は後日にして…。
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 写真は塩沢駅から徒歩10分くらいのところにある鈴木牧之記念館です。

 鈴木牧之は『江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した「北越雪譜」を著した人』で、もともとは塩沢で縮仲買商や質屋を営んでいた人で、「北越雪譜」は「雪の結晶のスケッチから雪国の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚まで雪国の諸相が豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ」書籍です。

 私も著者や書籍も(よくあるアンケートの答えではありませんが、)“名前だけは知っていました”し、その記念館が塩沢にあるのもトミオカ・ホワイト美術館に行ったときに知っていたはずだったのですが、恥ずかしながら塩沢駅に降り立つまですっかり忘れていました。

 ということで、2番目の札所への巡拝に向かうまでの寸時を惜しんで…。
 そうなんです。お昼にするか記念館にするかの究極の選択の末、お昼をアンパン2ヶで我慢して記念館に行ってきました。
 でも、やっぱり短い時間のせいもあり、なかなか全体像がわかりにくかったので、帰りに「北越雪譜」の現代語訳版の「北越雪譜物語」を買ってきました。

 その中に“農夫”の琴線に触れる一文がありましたので、それを紹介します。
 
 「越後の里の雪は3月ころになると、ようやく少しずつ消えていきます。(中略)
 やがて、4月の声を聞くと、田畑の雪もあちこちで消えて土が顔をのぞかせます。去年の秋の彼岸に播いておいた野菜の種が、雪の下から芽を出し始め…、(中略)。
 魚たちにものが言えるのなら、やれやれうれしいことよ、生き返ったよと言うに違いありません。」

 今から約170年前も今も春を待ちわびる気持ちは(人も、そして魚も?)変わりがないんだなとトミオカ・ホワイトの絵のような山並みを見ながら思いました。c0187298_061227.jpg


 それにしてもこれまで悪天候が嘘のような透きとおるような青空と雪の山並みのコントラストが素晴らしかったです。
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by mm-nadachi | 2009-02-10 00:00 | ふと思うこと | Comments(0)