『決戦下の高校生 苦闘の手記』を読んで…

1月23日
『一日中快晴。暖かく、雪は山には殆ど見えず、実に恵まれた寡雪の冬だ。大寒というのに春の如くぽかぽかだ。』

1月24日
『朝はとても暖かく、まるで3月のようだ。日中は曇天でやや小雨模様』

これは昭和21年(1946年)…ということは68年前の1月23日と24日の名立村(当時)西蒲生田(このあたりでは「にしかもだ」と言います)の冬模様を記したもので、この「日記」を書いたのが当時東京から西蒲生田に来ていた竹島秀太さんです

竹島秀太さんは昭和3年4月、竹島家の5男として生まれ、昭和20年6月に旧制静岡高校に入学します
その年の8月、終戦とともに父の出身地である西蒲生田に来ますが、間もなく闘病生活(肋膜炎)に入ります
そして、昭和22年2月19日東京の自宅で18歳で亡くなりました

『決戦下の高校生 苦闘の手記』は竹島秀太さんの弟である竹島正義さんが昨年7月、「雄志空しく18歳で夭折した私の兄、竹島秀太の昭和20年終戦前後ほぼ1年間の記録」であり、「病気と必死に戦いながら、この世に生きた証を残すべく懸命に書き残した兄の思い」を「後の世代に残す必要がある」として発行されたものです
c0187298_15583368.jpg

先日、友人から「名立のことが出ているよ」と教えられて読んでみました

冒頭にもあるように、昭和20年8月に西蒲生田に来てからはもちろんのこと、静岡高校入学以降の「尞の食糧事情の悪さ、空襲、勤労動員等のため、勉学の意欲が衰えていく」中での名立、西蒲生田への思いが切々と、ときには狂おしいほどに記されています

昭和20年7月3日(火)
ホームシック
ここ連日、東京のこと、名立の父母を思い、ここの勉強のつまらなさと食糧の乏しさを考え合わせる度に、田舎へ帰りたくて堪らない
(中略)
ともかく、父母在ます家郷へ行って充分な飯を食べたい。嗚呼、麗しき名立の海、蒲生田の山、直江津の海水浴、尽きぬ思いはあれど、今はかなわぬわが身なり。

同年7月20日(金)
望郷の念切なり。思えば、先月の本日なり。母と二人して日本海岸を歩きしは。遠き海原より寄する白き波、紺碧の水、照りつける太陽、緑に映ゆる山々、母と共に自然を眺めて楽しき一時を過ごせり。苦心して求めしさばの塩焼きと赤飯、忘れられぬその味。杉の薪拾い。

同年7月31日(火)
嗚呼、想い起す、父母の在ます故山、稲実り、鮮魚はねる名立町。想いは唯故山に走る。

名立、西蒲生田を思う心底にあるのが「決戦下の苦闘」ですが、そのことについてはその時代の後に生まれた私が語れるものではなく、「あとがき」で竹島正義さんが記しているように多くの“若き人々”から読んでもらい、感じてもらえたらと思います
c0187298_15591464.jpg

(*本書は三省堂書店から1,200円(税抜)で発売されていますし、上越市立高田図書館及び直江津図書館にも配架してあります)

これが今日の西蒲生田の上に広がる青空です
c0187298_1603499.jpg

c0187298_15574429.jpg

18歳の竹島秀太さんも68年前にはこのような澄みきった青空を見上げていたのでしょうね
[PR]
by mm-nadachi | 2014-01-24 16:02 | 名立に生きる | Comments(2)
Commented by さわしー at 2014-02-02 21:24 x
お疲れ様です。
ほとんど知られていない地元の歴史事実ですね。
名立寺さんに疎開に来られていた方のコメントも、確か名立町史に出ていました。
このような市井の事実を積み重ね、そこから学ぶことも大事ですね。
何か、きな臭さを感じる平成26年を生きる僕らにとって。

Commented by mm-nadachi at 2014-02-02 23:18
どの時代も「あの時代」と呼ばれる可能性があり、でも、そのように呼ばれることがいいのか…
それとも長い歴史の中で静かなときを刻んでいるのがいいのか…
ともあれ、どっちの「時代」でも自分のときを生きていたいものです


<< 今年もいきいきと… 大寒を生きる >>